838352 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

ありがとうディクシャ・ヒーリング

ありがとうディクシャ・ヒーリング

ゴールデンボールとバガヴァン、その2


ゴールデンボール、と、アンマ・バガヴァン、と、ゴールデンボール
その2


若かりし頃のバガヴァンは、マドラスのDon Bosco School に通っていました。

がイエズス会の修道士から教育を受けて、数学で卒業した学校です。彼は勉強す
るこ
とにほとんど注意を向けてこなかったにもかかわらず、勉学に優れていました。
彼は
子供時代を通じて、高次の力 ―彼が理解し難い何か― により、あるマントラを
詠唱
し、特定の姿勢に体を保つように動かされているように感じていました。巨大な
ゴー
ルデンボールがしばしば彼のもとに現れました。これらの事は彼の意志(volition
選択)によるものではありませんでした。実際、しばしば彼はクリケットやサッ
カー
の試合に参加して友達と遊びたかったのですが、彼はこの高次の力に強要されて
ほと
んど捕われの身であったと述べています。その高次の力は、彼にあらゆる種類の
スピ
リチュアルな修業をさせたのです。同じゴールデンボールがマシューに降りてき
てそ
れ自身の名前を告げた時、これだけの月日が流れるまで彼は子供時代のビジョン
の重
要性を理解していませんでした。
 彼の父親は引き続きバガヴァンに、彼が人生で何をするつもりなのか尋ね続け
てい
ました。彼が20代になってもです。そしていつも同じ答えが返ってきました。
「私
は世界を変えるつもりです。」 そのため、この少年にとって一番よいことは、
結婚
することであろう、と、周囲の人たちが結論づけました。きっと結婚が彼に世俗
的な
責任と義務の感覚を与えてくれるだろう、と。若かりし頃のバガヴァンは、両親
を喜
ばせることで彼に出来ることは何でもしていました。そのため彼は喜んでこの計
画を
受け入れました。インドの慣習により彼の両親はふさわしい花嫁を探し、近くの

Sangamで見つけ出しました。お互いの家族の友人が、二人の見合いを設けました
。そ
して出会った最初の数秒で、二人はお互いに深いところで認識しあいました。
 アンマ(Amma)、パットマヴァティ(Patmavati)として生まれた彼女も又、普通で

い子供時代を送りました。彼女はよく、早朝とても早く起きて家の近くの川へ行
き、
祈りを捧げ、神に向かってこうなりたいから、と儀式をしていました。彼女の唯
一の
執着は、神さまと結婚したい、ということでした。他の女の子が服や男の子や映
画に
興味を示している一方、彼女はこの一つの願いだけに気持ちを定め続けました。
この
彼女のただ一つだけの情熱、それが幼い子供のものだったとしても、それこそが
彼女
を Devine Mother の顕現(化身)として、土地の聖人たちや長老たちからあがめ

れる存在になるべく彼女を導いたのです。☆今日、アンマが考え出した川岸の儀

は、そんな素晴らしい夫との出会いを惹きつけられますようにと、村の女の子た
ちに
引き継がれています。

 バガヴァンは話を続けました:
 私の父親は私に尋ね続けました。「おまえは自分を誰だと思っているんだい?
」そ
して私は決して答えを変えませんでした:「私は神です。」 そのためついに、
私が
20代のある時、彼は言いました、「これはまったく俺の手に負えん。」 それ
は彼
が私のために結婚を用意したときでした。そして私は喜んでそれに応じました。
結婚
はとり行われましたが、同じことが続けられました。今や前よりひどくなってい
まし
た、何故なら私はいまだに「私は神です。」と言い続け、そして今や私の妻がこ
う言
うのですから。「私は神さまと結婚したいと祈ったの。そして今や私は神さまの
奥さ
んなのよ!」 彼の強固な無神論者の背景をもってしても、私の父親はこれ以上
続け
ることはできませんでした。とうとうある日、父親は私のところに来て、こう言
いま
した。「もしすべてが本当なら、俺を納得させてくれ。それが本当だと俺に見せ
てく
れ; 何か体験を与えてくれ。」 私は言いました、「そうします。」 彼はた
くさ
んの神秘的な体験をしました。彼はとても幸せになりました。2,3カ月後、彼
は亡
くなりました ― 彼は申し分ない幸せのうちに亡くなったのです。

 結婚式のすぐ後、アンマとバガヴァンは学校を開く計画をたてました。最初の
時か
ら、アンマはその計画(formation)の中心にいました。

1991年までに、学校は完全に転換しました。学問的な勉強は続けられま

たが、若いときのバガヴァンのように、それらは子供たちや先生にとっては二番
目の
優先事項でした。みんな、深い神秘体験に夢中になっていました: さまざまな異
なった神々の、深い静寂と理由のない深い喜びと愛の体験。人々はあらゆる種類
の聖
なる香り、お香のような香りを、理由なくかぎました。人々は異なった言語の詠

(chanting)を聞き,それはまるで天使の歌声が降りてきたようでした。外の道を

切っている人や、キャンパスに配達に来た人たちでさえ、これらの体験をしまし
た。
 このすべてに対して、子供たちの親からの反応は、いろいろでした。ある親は
とて
も喜び、本当に喜んだため、実際彼らも子供たちと同じビジョンをみたいと頼ん
でき
ました。☆しかし、ある親は苦情を言って来ました。彼らが言うには「私たちは
子供
たちを医者や弁護士や会計士になってもらうために、ここに通わせているんだ。
神秘
家になるためじゃない。あんた方は子供にいったい何をしているんだい?」 こ
れら
すべてのため、バガヴァンはシンプルな決心をしました。学校活動を徐々に弱め
、ス
ピリチュアルワークのためのセンターを開きました。2、3週間以内に子供たち
の間
の神秘体験はずっと少なくなり、最初のリトリート(retreat)が親たちのために開

れました。Jyotiはそのときのバガヴァンとの会合をこう回想しています:

 私の両親はとても恐れていました。私は10回目の標準テストを受けたくあり
ませ
んでした。私は勉強をやめ、アンマとバガヴァンのもとに戻り、始まりつつあっ
たス
ピリチュアル活動の一員となりたかったのです。最初の集中コースが行われまし
た。
そして私はそのワークに参加したかったのです。私は、それはお願いするには過
大な
ことだと分かっていました。バガヴァンは私に言いました。「あなたの戦いは今

まったんだよ。あなたはあらゆる面で機能的にならなければならない。」 彼は
言い
ました。「私の前に坐りなさい。」 私は坐りました。彼は言いました。「目を
あけ
たままでいなさい。」 15分ぐらい経って私が立ち上がったとき、私はどんな
こと
でも対処していく準備ができていました。そこにあった興奮状態は消えていまし
た。
その体験の強さはどこかにいってしまいました。そして戦いが始まったのです:
 私
は家に戻り、両親を説得しなければなりませんでした。彼らは同意しませんでし
た。
私は第10回の試験をとにかく受けました。勉強はもはや難しくありませんでし
た。
それはとても簡単でした。ふんだんな集中力がありました。アンマとバガヴァン
は、
いつでも私たちに、勉強はとても簡単だと感じさせてくれました。心配はふき飛
びま
した。何かを学ぶことは、難しくなかったのです。

 彼女が教育を終えたとき、Jyotiは家族と一緒に暮らすために家に戻り、学校に

時折しか訪れることができませんでした。展開しつつあった(unfolding)ワーク

彼女が参加することを両親に同意してもらうまで、3年かかりました。彼女が最
終的
に戻ったときサマダーシニという名を与えられました。今日、彼女はワンネス
ユニ
ヴァーシティの3人の高弟、もしくはacharyas のうちの一人です。 
 ジーヴァアシュラムが完全に閉校になるまで、さらに3年がかかりました。バ

ヴァンはすべての子供たちが、自分たちの教育を終えられるように主張し、その
ため
ほとんどの junior classは、卒業へと進めなければ(move through)なりませんで

た。 しかしながら、同時に、スピリチュアルコースが始まりました。最初に学
校で
開かれたコースは、生徒の親たちのためでした。☆しかし、じきに2番目のキャ
ンパ
ス、Somangalam と名付けられ、ずっとマドラスに近いと場所、がオープンしまし
た。Principalは今や10代の若者となった生徒たちの小グループとともに、学校

らそこへ移りました。ギリ(Giri)はアナンダギリ(Anandagiri)となり、サティシ

(Satish)はヴィマルキルティ(Vimalkirti)になりました。彼らは現在ユニヴァー

ティの他の2人の高弟(Acharya)です。
 コースは、3,6,10日間で開かれました。その目的は主に、意識の完全な
る覚
醒のための、ふさわしい基礎(foundation)をつくることでした。よい人間関係を
(right relationship)築き、肉体を癒し、抑圧されてきた感情の傷を感じ、ほか

人に与えてきた傷を感じる能力を開く(develop)ことでした。いつも強調されてい

ことは、直接の体験、脳内の変化(shift)でした。そのため、教えを聞いたりスピ

チュアルな修業(practice)をしたりすることはほとんどありませんでした: コー

の中心は、いつでもディクシャでした。参加者は、どんなふうに人間関係が解決
され
ないままになっていたか、痛みが感じられないままになっていたかに気付くよう
にな
り、そしてそれに対して自分では何もできないことが分かるようになりました。
彼ら
は、ディヴァインの助けを求めるように、勇気づけられました(encouraged)。そ

て、クリシュナ、アナンダギリ、そして他の男の子たち、 ― ほんの10代の若
者た
ちなのですが ― が、ディクシャを与えました。そして参加者は、人生のあらゆ
る側
面における奇跡的な癒しを体験しました。当時すべてのコースは無料で提供され
てい
ました。参加者の一部は寄付をしていたとしてもです。ほとんどの参加者はイン
ド人
でした。インドを旅行していた若いスウェーデン人の男性は、当時の初期のコー
スに
参加した、数少ない西洋人の一人です。彼は回想します:

 私は、一番初めの1週間コースに参加しました。教えを聞くことはなく、アナン

ギリとクリシュナが、ある特別なエネルギーを流してくれただけでした。私は光
で満
たされ、完全に落ち着いていました。そして続いて体験(revelation)と洞察が
、す
べてひとりでに洪水のように押し寄せてきました。
学校から来たPrincipalがコースを進めましたが、すべてのディクシャはこれらの

い少年たち:13歳、14歳、15歳の少年たちによって与えられました。私はインドを

してたくさんの覚醒した(enlighted)人たちに会いました。アマチやラマナ?マハ
リシ
のアシュラムで出会った教師たちを含めてです。彼らはみな、私に強い印象を与
えま
した。しかし、何故かこの子供たちによって、私のハートはより動かされたので
す。
私はただ泣きました; 私は涙があふれるのを止めることができませんでした。彼
らは
なんて神聖な無邪気さと美をたたえていたことでしょう ― それはおとぎ話のよ
うで
した。私はラマナアシュラムに戻りました。彼らは私に言いました、☆「今度、
新し
い瞑想ができるようになったんだ。あなたの内側のディバインプレゼンスに、自
分を
助けてくれるように頼むことができるんだよ。」 私は、はかりしれない平安の状

にあり、私の気持ちはそこにありませんでした。あのコースの後、私がほかに取
り組
んでいたすべてが、機能するようになっていたのです。(After that course,
everything else I tried just worked.)

 1994年の夏までに最後の生徒たちが卒業して、学校は正式に閉鎖されまし
た。
キャンパスには新たにサティアローカ(Satyaloka)という名前がつけられ、若い高

(acharya)たちが戻ってきました。これらの10台の若者たちが頭を触っただけで

たらす、並外れた贈り物(gift)のために、その需要はインド中のあらゆるところ
に広
がっていきました。バガヴァンの妹(姉?)とその夫が、初めての公式の会合を19

3年にマドラスで主催しました。その後、あらゆるところから招待が舞い込んで
きま
した。10代の若者たちは、インド中を廻ってコースを提供し、アンマとバガヴ
ァン
は守備よく公の目から退きました。彼らはマドラスの海辺の近くのプライベート
ハウ
スに移り、静かに暮らし、一緒の時間を楽しみました。1カ月に1度ほど、彼ら
はア
チャリアたちと会い、すべてがうまく運んでいることに満足して、そして又隠遁
生活
に戻るのでした。それはそんな風に、4年近くの間続きました。

やがて、みんなのところを廻るだけの十分な人数の教師がいないことが明らか
にな
りました。そしてダーサ(dasas)、もしくはガイドという名で知られるorder(会、

級、種類、集団)を始めることになりました。年若い男子、女子が加わりました。

るものは既にディクシャを受けたことのある家族の子供でしたが、多くの10代
の若
者たちは、すべて彼ら自身の考えで、人類の霊的な転換に自分の人生を捧げたい
と望
むパワフルなビジョンをもっていました。彼らにはアンマとバガヴァンのビジョ
ンを
見た者もいれば、特定の場所に特定の時間に行くように呼ばれ、そこで若いアチ
ャリ
アたちに会う者もいました。

 当時加わったインド人の若者の多くは、魅惑的な逸話をもっています。ダーサ
の会
には、修道会ではよく見られるような規律はまったくありませんでした。彼らは
好き
なものを食べることができ、好きなものを着て、望むときはいつでも敬意をもっ
て、
会を離れることができました。あくまで彼ら自身の中から、次第に一緒にいるた

に、ある様式に従う同意がとられていくようになりました。ですから外部から規
則が
課されたことは一度もなかったのです。

 そんな年月の間、何百人も何千人もの人々が、インドでアチャリアから、そし
てそ
の後はダーサから、実物のアンマやバガヴァンを見ることなく、ディクシャを受
けま
した。彼らは内側の結びつきを信頼する必要がありました。そして内側の結びつ
きは
育っていきました。当時、アンマは彼女の希望により、ほとんど公に出ていませ
んで
した;ディクシャ現象の大元として、すべての視線はバガヴァンに集まっていま

た。それからしばらくして、北インドの幾人かの人々が、学校で撮影された彼女
の写
真を手に入れました。その写真と関連して、奇跡的な癒しの話が広がり始めまし

― 人間関係が癒され、経済的問題は好転しました。彼女がDivine Mother の表れ
(emanation)である、との評判が築かれていきました。人々は彼女が誰で、結婚

ているかどうかさえ知らなかったのにです。
 今日、アンマとバガヴァンは同じアヴァター意識の両面の表れ(emenation)とし
て、インドで広く知られています。アンマはそれをこんな風に説明しています:

 アンマとバガヴァンはひとつです。それは神の母親と父親の側面です。バガヴ
ァン
は父親としての恩寵を人々に与え; アンマは母親として、彼らの望みを、ニーズ
を、健康の問題を-実際のところすべてを、満たします。バガヴァンは、いつも
人々
のスピリチュアルな成長に関心を置き、人々をムクティ(Mukti)-解放
(liberation)-に導き、一方アンマは人々の願いをかなえることに、専心してい

す。

 アンマとバガヴァンの隠遁生活をもってしても、この活動はインド中に野火の
よう
に広がっていきました。1997年の3月、バガヴァンの誕生日の頃、その頃に
はい
つも大きなお祝いがあるのですが、そのときは100もの異なったイベントが、
マド
ラス中で企画され、若いダーサが講話とディクシャを行いました。それぞれのイ
ベン
トは大きな群衆を引き付け、地方政府の目を引く事になりました。政府の人々が
たく
さんの若者たちが集まっていることを見て、彼らは若者たちが新しい政党を立ち
上げ
て彼らの権力を脅かす可能性しか考えられませんでした。年少者の誘拐や暴力や
殺人
が、サティヤローカの本部で行われているという、まことしやかな話がテレビで
流さ
れました。警察がやってきましたが、これらの噂はかけらひとつとして実証され
ませ
んでした。しかしながら、それは大衆に大きな恐怖を創り出すのに十分でした。
同時
に、アンマとバガヴァンが実際には存在せず、彼らは若いダーサたちによって結
成さ
れた、無政府主義者(anarchist)政党のための名目上の架空の指導者である、と
いう
噂が、政府によって流されました。

 これらの噂を一掃するために、アンマとバガヴァンは、隠遁生活に終わりを告
げ、
公の生活に戻ってきました。その春、彼らは以前に住んでいたサティヤローカの
彼ら
の家の後ろの芝生の上で、今や100人以上に膨れ上がっていたダーサたちと会いま

た。パブリックダルシャンが5月にあると、告知されました。15万人の人々が
、イ
ンド中から参加しました。写真の中でしか見たことがなかったアヴァターたちを
、直
接この目で見るために、人々は何マイルもの長さの列に並んで待ちました。いっ
たん
アンマとバガヴァンが、定期的に公式の場に出るようになると、彼らの業績と評
判は
さらに高まりました。2番目のセンターが、バガヴァンの父親が所有していた農
場の
地、ネーマン(Nemam)に、純粋にアンマに会うための公式な場としてオープンしま

た。ここは今日まで毎日1万人以上の人を集めています。同時に、少数の西洋人
がこ
の現象を耳にするようになりました。今までは主にインド人の間だけにしか知ら
れて
いなかったのです。西洋人向けの最初のコースが、ロシアとアメリカとスカンジ
ナビ
アから来た40人の参加者のために、1998年に開かれました。

 現象は毎年さらに速いペースで大きくなり続けました。そして、サティヤロー
カの
200エーカーのキャンパスでさえ、増加し続ける参加者を収容しきれないこと
が、
明らかになってきました。適切な土地を見つけるための、徹底的な調査が始まり
まし
た。クリシュナは、今や20歳になっていましたが、数年間の間、十分に広く、
ふさ
わしい土地を見つけるために、年間55000マイルも旅しました。1999年
のあ
る日、アナンダギリはほかのダーサたちと一緒に、40日間のインターナショナ
ルの
コースをサティヤローカで終えようとしていたとき、クリシュナから電話を受け
まし
た。「すぐ来た方がいいと思うよ。」クリシュナは言いました。「非常に特別な
もの
を見つけたんだ。すぐおいで。Varadaiahpalemで会おう。」 私たちが後に聞い
たと
き、当時のVaradaiahpalemは南インドでも最も荒廃していて魅力のない地域のひ
とつ
でした。飲酒と、配偶者虐待、喧嘩、ひどい失業率で悪名高い地域だったのです
。ク
リシュナの電話は、あたかもサウスブロンクスへの訪問の招待のようなものでし
た。
しかし、アナンダギリはそこに向かったのです。

 クリシュナはアナンダギリを国営森林地の中腹におさまる、けた外れにすばら
しい
売り地に連れて行きました。滝に小川に、それはまるで天国の眺めのようでした
。彼
らは二人とも、見つけた、と思いました。その土地は、ある兄弟に相続されてい
まし
た。彼らの父親の遺言により、人類のためになる仕事をなすスピリチュアルな団
体に
のみ売るように、と、条件がつけられていました。クリシュナとアナンダギリは
、こ
れは彼らが待ち望んでいたサインだと受け取りました。資金は寄付され、土地は
購入
されました。続く月日のうちに、さらなる土地が他の所有者から購入されました
。こ
の土地は現在ワンネスユニヴァーシティ ― 、広がる11のキャンパスと、特定

神々ではなく、(人類の)「ワンネス」に捧げられたインドで最も大きい寺院の

つ、を含む ― を擁しています。 それは又、100,000人以上に影響を与え

140の地方のコミュニティを生き返らせる社会的プロジェクトの本部でもあり

す。我々は、この本の後半で、これらについてのより多くの情報に触れていきま
す。

 バガヴァンとダーサたちは最初のキャンパスに移り、それは2000年に終わ
りま
した。移動は場所の変化だけではなく、意識の劇的なシフトでもありました。バ

ヴァンは常に、enlightenment(覚醒、悟り)を特定の脳の状態として、人間の意
識の
自然な状態として語っていました; 人々に、この脳の機能状態をもたらすことが

今やユニヴァーシティの主たる仕事になっています。今や170人を数えるすべ
ての
ダーサたちは、準備のための集中コースとディクシャを受け、彼らのすべてがバ

ヴァンが"Awakening to Oneness ワンネスへの目覚め"と呼ぶ、脳の意識状態の閾

を超えています。ユニヴァーシティは、参加者に意識の目覚めの変容をもたらす
こと
を主たる目的とした、さらに強度を上げた「ムクティコース」を提供し始めまし
た。

 2004年の1月、ユニヴァーシティは、西洋人向けの初めての21日間コー
ス、
今や世界中で一番よく知られているプログラム、を開催しました。このコースは
、ワ
ンネスブレッシング(ディクシャ)を与えられるようになるために、必須のコー
スで
す。現在ワンネスプロセスとして知られているこのコースは、特別に設計された
キャ
ンパスで、ワンネステンプルから道を横切ったすぐのところで、開催されていま
す。
毎月数百人の訪問者が、世界中から集中プロセスを体験するためにワンネスユニ
ヴァーシティにやってきます。その最中、参加者はほとんどの時間を沈黙で過ご
しま
す。コースは常に進化しています。世界中の新しい参加者や修了者の体験を生か

て、毎回ダーサたちによりあたらしくデザインし直されます。最後の章で、ワン
ネス
プロセスの参加者の体験を、より詳しく伝えています。

 過去2,3年にわたり、世界中で12000人以上の人々が、55カ国以上で
ワン
ネスブレッシングを与えられるようイニシエーションを受けました。彼らの中に
は心
理療法士、医師、作家、俳優、キリスト教司教、イスラム教の導師(imam)、ユ
ダヤ
教のラビ、ヒンズー教の聖人、土着のシャーマン、そしてその間のすべての人々
がい
ました。何千万人もの人がこのブレッシングを受けたと推定され、その人数は毎
日増
えています。これほど短期間に、これほど沢山の、こんなに様々なバックグラウ
ンド
をもつ人々のハートに火をつけた、この現象とは、いったい何でしょう?この質
問に
答えるため、私たちはこの現象それ自身への理解を深め、それが脳と神経組織に
どう
作用をするのか、さらに探る必要があるでしょう。

                                    <

二章終わり

ありがとうディクシャ
http://homepage1.nifty.com/manaso/


© Rakuten Group, Inc.